私が愛した北朝鮮スパイと拉致事件

【インタビュー】
 私が愛した北朝鮮スパイと拉致事件


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 「すべて国のためにやったこと」と辛光洙告白
  パク・チュンソン(朴春仙)
  聞き手/産経新聞社会部 中村将

「日朝間のノドに突き刺さった骨」と揶揄(やゆ)される北朝鮮による日本人拉致事件。政府はこれまでに「七件十人の日本人が北朝鮮工作員によって拉致された疑いが強い」と国会答弁などで公表してきた。警察当局の捜査や北朝鮮から韓国に亡命した元工作員の証言などを総合的に判断した結果だ。中でも、昭和五十五年六月、宮崎県・青島海岸から姿を消した大阪市の中華料理店員、原敕晁(はら・ただあき)さん(当時四十三歳)の例では、韓国の裁判が日本人拉致を「疑惑」ではなく、明白な「事件」として事実認定している。

 ソウル地裁の判決文(二三〇頁参照)によると、原さんは、北朝鮮から工作船を乗り継ぎ日本に密入国した工作員辛光洙シン・グァンス元服役囚(七十歳)によって北朝鮮に拉致された。辛元服役囚はその後、原さんになりすまし、パスポートや運転免許証、国民健康保険証などを取得し、日本や東南アジアなどで工作活動を繰り広げたが、韓国に入国した昭和六十年二月、国家保安法違反(スパイ活動)容疑で逮捕された。

 その辛元服役囚が昨年末、十五年の獄中生活を経て韓国のミレニアム恩赦で釈放されたのを受けて、辛元服役囚の日本潜伏中に約二年間、内縁関係にあった在日朝鮮人の女性で、「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク(RENK)」会員の朴春仙さん(六十三歳)=京都市在住=がこの一月、韓国を訪れ、辛元服役囚と面会した。久々の出会いだったが、約一時間余の面会中、辛元服役囚は「私が捕まった後、なぜ私との生活についてしゃべったのか。秘密をしゃべったことは許されない。すべて国のためにやったことだ。私のことを公にしてもらっては困る。国も困る」など一方的にまくしたてたという。

 以下、拉致事件や在日朝鮮・韓国人帰国者問題の解決を訴える朴さんとのインタビュー詳報を紹介する。 

「お前は国に恥をかかせて、俺に恥をかかせた」
辛光洙元服役囚との怒声の再会

― 辛元服役囚とは、いつ、どのように面会しましたか。

 朴さん 昨年の十二月三十日に彼(辛元服役囚)が、恩赦で三十一日午前十時に出所することがわかりました。韓国にいる知人の連絡で、ソウルの郊外にある民家で「未転向長期囚後援会」の支援のもと、八人ぐらいの政治犯元服役囚と共同生活を送っていることがわかりました。そこで私は一月九日に韓国に行き、翌日午前に彼が住む民家を訪ねました。

 かなり待たされ、四十分ぐらいたったころに、頭が真っ白になった辛さんが、足をひきずりながら歩いてきました。すぐ分かり近づくと、「何でそんなに驚くのかな」というぐらいに辛さんはものすごく驚いていました。最初、辛さんは私と話すことを拒んだのですが、元服役囚の方が「さあ、入りなさい」といって、私を彼の部屋に導いてくれたのです。
 
― 辛元服役囚の様子はいかがでしたか。

 朴さん 部屋に入ると、彼は顔を真っ赤にして恐ろしい顔をして座っていました。私が「長い間、ご苦労さまでした」とあいさつすると、「ご苦労もなにもない。お前は国に恥をかかせて、俺に恥をかかせて。それがどんなことか分かっているのか」と、しばらくは怒られ続けられました。

 とにかく凄まじかった。「お前は反動分子だ。お前が私のことを日本のマスコミなどに話したことで、日本にいる在日朝鮮人にも伝わった。在日朝鮮人たちが、北朝鮮を支持しなくなった。韓国籍に変えた在日もたくさんいる。全部、お前さんが公表したせいだ」というんです。「あなたは、僕のことを思うなら、国のことを思うなら、日本政府や全世界に、僕のことを大っぴらにしてはいけない」といったことを何度も繰り返しました。そればかりか「お前は本まで書いたじゃないか」といって、私の本(注 九四年発行『北朝鮮よ、銃殺した兄を返せ!』=ザ・マサダ刊)を、韓国語に翻訳した紙の束をバッと放り投げたのです。 《朴さんが辛元服役囚と知り合ったのは、昭和四十八年十月十日だった。夫と別れ三人の子供を連れて京都から上京した朴さんは、千葉県市川市行徳駅近くの在日朝鮮人経営の海産物会社で住み込みで賄い婦を始めた。子供が通っていた東京都品川区の朝鮮初級学校の運動会で、「在日本朝鮮人総連合会」(朝鮮総連)の知り合いに、辛元服役囚を紹介された。辛元服役囚はそのとき「坂本」と名乗ったという。

 その年の十二月ごろ、朴さんは行徳駅で辛元服役囚とばったり出会う。話がしたいと熱心にせがまれ、朴さんの会社の寮で話をきくことにした。「東京で商売がしたいので、私の代わりに家を借りてくれないか。お金はすべて私が出す。あなたと子供さんたちがそこに住み、私は下宿する形にしてほしい」。辛元服役囚はこう切り出した。最初は「変なことをいう人だな」と思った朴さんだったが、毎日のように訪ねてきては頼み続けるので、結局、申し出を受け入れた。

 朴さんは四十八年十二月、東京都目黒区に一軒家を借りた。朴さんと三人の子供が一階に、辛元服役囚は二階に下宿したが、やがて夫婦同然の生活が始まった。朴さんは「子供の勉強をみてくれるなど、優しい人でしたが、昼間は部屋に閉じこもりっきり。夜になると部屋から番号だけが流れるラジオの音が聞こえてきました」と当時を振り返る。新宿の書店に一緒に行ったときには「自衛隊の飛行機や武器に関する本を買ってきてほしい」と頼まれたこともあったという。

 朴さんは原さんが失踪した五年ほど前に、辛元服役囚とともに、能登半島や原さんが拉致された宮崎県・青島海岸に旅行をしたこともあった。辛元服役囚は、東京・馬喰町で計算機や乾電池、ラジオなどをボストンバッグが一杯になるくらい買いあさって出かけた。朴さんが「そんなに買って何に使うの」と聞くと、辛元服役囚は「朝鮮に送る」といった。「朝鮮総連に頼めば送ってくれるのに」と朴さん。すると、辛元服役囚は「直接、手渡したい」と語ったという。 

 青島海岸に着いて、夜遅くに海岸のそばにある公園に散歩に出かけた。しばらくすると辛元服役囚は朴さんに「あなたはもう帰りなさい」といってお金を渡した。辛元服役囚はボストンバッグからヘッドホンを取り出してラジオを聞き始めたという。朴さんは夜行列車に乗って帰った。

 辛元服役囚は五十一年の初めごろ、「しばらく外国に出張に行く」と言って突然、姿を消した。五十五年冬、再び朴さんの前に現れた辛元服役囚。朴さんが免許証をみると、「原」という名前になっていたという。「坂本さんじゃなかったの」と不思議そうにたずねる朴さんに向かって、辛元服役囚は「帰化して名前が変わった」と話した》 

「彼が工作員をしているとは薄々感じていました」と朴さん

― 韓国の裁判が事実認定しているが、大阪市の中華料理店店員の原敕晁の拉致について、何か話をしましたか。

 朴さん 彼は自分のやったこと、つまり、原さんの拉致も含めて、日本でやってきた活動を認めているんです。直接、「拉致」という言葉は使いませんでしたが、話していれば、当然、拉致だということもわかります。認めていますよ。私は、あまりにも辛さんが感情的になったので、少し落ち着いて話しましょうといいました。

 私だって、途中から、彼が工作員のような仕事をしていたことは、一緒に暮らしていましたから、薄々感じていました。それでも、私だって国(北朝鮮)のためを思ったから一緒に生活してあげたんです。辛さんが捕まった後、マスコミなどの取材に応じたのは「辛さんも北朝鮮のロボットとして利用されていた」と、いわば「真実を公表したい」と思ってやったことです。

 昭和三十七年に北朝鮮に渡った私の兄は平壌放送のアナウンサーをしていたが、辛さんが昭和六十年二月に捕まった直後の八月二十一日、スパイ容疑で銃殺刑に処せられました。「どうして、あなたを助けた私が、こんなに辛い思いをしなければいけないの」と、逆にたずねました。

 さすがに、辛さんは驚きを隠せない様子でしたが、「ぼくのせいではない。処刑されたのは、日本政府関係者たちが北朝鮮に来たときに、あなたの兄さんが秘密をしゃべったからだ」とかいっていました。それで「そんなことないわ」と反論しました。 

― 日本人拉致は「国のためにやった」と言ったと。

 朴さん そうです。原さんを拉致したという細かい点ではなく、日本でやっていたことすべてについて、確かにそういいました。彼は「僕は幼いころ日本で過ごしたが『朝鮮人朝鮮人』といっていじめられてね、在日朝鮮人も韓国人もみんな日本人に虐げられてね、これではだめだと思ったから家族で朝鮮(現在の韓国)に帰ってきた」と言いました。「学校も行かせてくれて、ご飯も食べさせてくれた国には感謝している。だから、国のためにやった」と言っていました。それで、拉致も含めた工作をやらざるを得なかったんだろうと感じました。

 それでも、「拉致…」と言いかけると、私から離れた所に座っていた辛さんは、どんどん私のそばに近づいてきて「さんざん私に恥をかかせた上に…。もうお前とは二度と会わない。早く帰れ。お前のような反動分子は、俺には必要ない」とまくしたて、最後は「ウー」と低い声でうなっていました。 

私が「黄長●(ファン・ジャンヨプ)(●=火へんに華のつくり)書記をはじめ、軍人や工作員など北朝鮮から亡命して韓国に来る人は後を絶たないじゃないですか。あれは真実じゃないですか。そうした方たちと会って、もっと朝鮮民族のことについて真剣に話し合うべきですよ」と話すと、「黄書記は、あれは反動分子だ。裏切りものだ」と言いました。

 私は「だったら、中国との国境を越えて、食べ物を求めてさ迷っている北朝鮮の人々も裏切りものですか」と聞きました。「在日朝鮮人だって、帰還事業で北朝鮮に帰っても、その消息がわからなくなっている人がたくさんいる。こうした現状をみても、北朝鮮はすばらしい国なのですか」と。辛さんは「とにかく、みんな裏切り者だ」と吐き捨てました。

 私は「あなただって、捕まって韓国にいるけれど、死刑にならなかったことは幸せに思うべきですよ」と話しかけると、辛さんは刑務所で自分や原さん拉致事件に関する報道に目を通したようで、「俺はばかじゃないからみんな知っている。秘密をしゃべったお前は反動分子だ」の一点張りでした。しかし、辛さんも、刑務所で一度は自殺を考えたようです。 

金日成主席の死去に断食した辛光洙元服役囚

― 辛元服役囚はまったく帰順していないわけですね。

 朴さん まったくしていませんよ。彼は私の鞄を持って突き出し、「早く帰れ」と怒鳴り立てるので、私もカッとなって「北朝鮮は殺された私の兄さんを返して」と怒鳴りました。

 私が悲しかったのは、辛さんが日本で私と同居していたときは、私の子供の勉強の面倒をみてくれたり、遊び相手になってくれていたんです。一言でもいいから「子供たちは元気か」とか、「変わりはないか」といった言葉が欲しかった。私が「何の罪もない兄さんを殺して。北朝鮮は人殺しの国じゃないの」と言ったところで、日本から一緒に行った私の同行者が「日本人を拉致しただろう」と辛さんに叫んだんです。そうしたら、辛さんは手を挙げ、その人を叩こうとしました。

 辛さんは韓国当局の取り調べで全部話したのに、死刑判決が出たことにも怒っていました。裁判の判決文に書いてあることは正しいということですよ。 

― 約十五年近くもの間、刑務所に入っていた辛元服役囚は金日成主席の死去を刑務所の中で知ったんですよね。

 朴さん そうです。もともと彼は金正日(総書記)というより、金日成(主席)のためにすべてを捧げた人でした。今回の面会では、その話はしませんでしたが、彼の刑務所生活を知っている関係者の話では、金日成の死去を知ってからの一週間は断食したそうです。ものすごく泣いたそうです。

 昭和五十七年に「原さん」になった辛さんが私を突然、訪ねてきたことを今でも鮮明に覚えています。一週間ぐらいうちに滞在したのですが、彼は「祖国統一のためには、僕らがやっているような仕事が重要なんだ。戦争を起こさないためにも、ぼくらが必要なんだ。こうした仕事はアメリカだって、どこの国だってやっているんだよ」と言っていました。

 家を出て行く日、私は京都駅まで送りましたが、彼は何度も振り返って去っていきました。それが最後でした。刑務所にも私は四回会いに行きましたが、辛さんは面会を拒みました。今回は十七年ぶりに会ったんです。あんなに怒る前に、一言でも「元気だったか」と声をかけて欲しかったんですよ。 

在日と日本人が力を合わせ北朝鮮の人権改善を求めるシンポジウム開催を 《朴さんは、「RENK」のメンバーとして、辛元服役囚や銃殺されたお兄さんのことだけではなく、北朝鮮に横たわる在日朝鮮人や日本人妻などの帰国者問題や、政治犯強制収容所の廃止、北朝鮮難民の保護問題など、様々な人権改善の要求を進めている。

 そして朴さんは多くの関係者に「日本人自身にすら、拉致問題について無関心な人がまだまだ多い。『拉致の証拠がない』などと平気で言う政治家がいますが、私の前で言ってほしかった。政府も、人権、人道の問題に対しては、拉致された人々を返すよう強く迫るべきです。罪のない人が国外にさらわれるなんて法治国家としてあってはならない事です。ご家族が会えない苦しさは、私も帰国者の家族としてよくわかります。在日と日本人が、政治的な立場や運動の違いを越えて手をつなぎ、北朝鮮の人権の回復と政治の民主化を求め、飢餓にあえぐ人々を救援するよう、大きなシンポジウムを開いて、北朝鮮と世界に対しアピールを発してもらいたい」との希望を語っている。

 辛元服役囚は原さん拉致を含める日本での工作活動を否定しなかったばかりか、韓国当局の取り調べに対し「すべて話したのに、死刑判決にした」と今でも怒っているという。韓国・ソウル地裁の判決文にある事実関係を肯定した形だ。 

元服役囚の釈放を受けて、北朝鮮に拉致された疑いのある日本人の家族や、支援団体は「辛元服役囚を日本でも取り調べてほしい」と訴えている。「拉致被害者家族連絡会」(横田滋代表)や「拉致された日本人を救出するための全国協議会」(佐藤勝巳会長)、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための地方議員の会」(土屋敬之会長)は警察庁や外務省などの関係省庁に辛元服役囚を日本で取り調べられるよう、要望書を提出した。

 実は、辛元服役囚が韓国で逮捕された昭和六十年、日本警察当局はICPO(国際刑事警察機構)を通じて韓国に拉致事件の解明を要請しており、ソウル地裁の判決文に示されているような、事件の全容の供述内容はとっくに把握しているのである。だが、事態はかんたんには進まない。

 警察庁は「本人から直接、事情を聴くためには日韓両国における、いくつかの条件をクリアしなければならないのと、本人の了解が必要」と説明。辛元服役囚の釈放について、重大な関心を持っており、事情聴取をするとすれば、どのような対応を取ればいいのか検討を始めたが、国際法上、早急な結論を出すのは難しいのが現状だ。 

ただ今回の朴さんの面会で、辛光洙が「拉致の実行犯」として行った工作活動について、一切否定しなかったことは、拉致が「疑惑」ではなく、「事件」だったことを改めて証明した。

 そのほかの北朝鮮による拉致疑惑(未遂も含む)でも、現場に残された犯人グループの遺留品や、外務省も「有力情報で疑惑を裏付ける材料の一つ」としている亡命工作員証言、日本人失跡の前後に乱れ飛ぶ怪電波など、拉致疑惑と認定されるに値する「証拠」は多数ある。警察庁が「北朝鮮による日本人拉致疑惑」というからには、公表こそされないが、相当の裏付けと確証があるからなのはいうまでもない。

 昨年十二月の村山訪朝団の一員として北朝鮮に行った国会議員の中には「拉致疑惑の証拠を知っているの。それは日本が勝手に言っていること」など妄言を吐いた議員もいた。「拉致」でなく「行方不明者」として、北朝鮮側に「調査」を依頼する日本政府。娘や息子を拉致された日本人家族は、こうした心無い交渉の進め方を嘆いている。一市民がやってみせてくれたことを政府や政党はなぜできないのか。この点につき、政府に熟慮断行を求めたい》 

【韓国・ソウル地裁の判決文の要旨】

 昭和四十六年二月、対南(韓国)工作員に抜擢された辛は約二年半、清津の招待所で政治思想学習と通信技術教育、工作実務教育を受けた。指導員から工作指令を受けた辛は最初の任務で日本に向かう。

 四十八年七月二日夜、元山港を工作母船で出港した辛は二日後、石川県・能登半島沖の海上で工作支船に乗り移って海岸へ近づき、さらに小型ゴムボートに乗り換えて午後九時半ごろ、石川県猿山灯台横の海岸から日本に上陸した。

 五十一年九月までの間、大阪や横浜で在日朝鮮人オルグして協力者を作ることや、日本社会で公開されている韓国情報を収集して北朝鮮に報告するなどの工作活動を行った。

 その後、「復帰(北朝鮮に戻ること)せよ」との指令を受けた辛は、迎えにきた工作船に乗り、帰国。五十五年四月までの間、さらなる工作実務教育を平壌市の龍城5号招待所や萬景台4号招待所などで受ける。 

 それが終わると、辛はこう指令を受けた。「日本人を拉致して本人になりすまし、日本で対南工作を続けよ」。身分盗用対象人物は辛と年齢の似た四十五から五十歳くらい、独身で身寄りのない者、日本の警察に指紋や写真を登録したことがない者、旅券の発給を受けたことがなく外国旅行をしたことがない者などが条件だった。

 二回目の日本潜入は五十五年四月。工作船を乗り継いだ辛は今度は宮崎県日向市の五十鈴川下流の海岸から上陸した。辛は大阪に向かう。

 当時の在日本朝鮮人大阪商工会幹部らと日本人拉致を画策し、この幹部が経営する中華料理店で働いていた独身で身寄りの少ない原敕晁に目をつけた。

 五十五年五月、辛は大阪市北区の大阪国際電報局分局から、あらかじめ定めていた方法で、暗号にした国際電報を北朝鮮へ発信した。「身分盗用人物を物色した。至急、帯同復帰(連れて帰国すること)の準備組織を頼む」。北朝鮮側からは、「同志の活動成果を祝す」として、原の拉致を実行する日時と場所を指定する指示が伝えられた。 

五十五年六月中旬、「新しい仕事を世話する」と紹介された原は大阪の料亭で酒食を振る舞われ、大阪駅から夜行列車で別府駅に、翌日に宮崎駅に連れて行かれた。青島海岸の観光ホテルに宿を取った辛たちは夕食時に原が泥酔するまで酒を飲ませた。辛は「寝るにはまだ早すぎるので海岸へ散歩に行こう」と誘った。海岸の松林を通って、北朝鮮からこの日に合せて潜入していた工作員との接触場所である小さな小川が流れる地点についた。

 そこに潜伏していた四人の工作員が現れる。辛は原を安心させるために、「うちの会社の船を持ってきてくれた人たちだから、心配しなくていい。私と先に社長の別荘に行きましょう」と話した。

 辛と原はゴムボートに乗って沖へ。そこに待機していた工作支船に乗り移り、さらに工作母船に乗り換えて四日後の午前七時ごろ、北朝鮮南浦港に着いた。

 こうして、辛は原を北朝鮮に拉致、日本人化学習などを受けて、原に成りすまし、三度目の日本潜入を決行した。東京都豊島区にアジトを構えた辛は原名義のパスポートや運転免許証、印鑑登録証などを次々と取得し、日本国内や東南アジアなどで対南工作を大々的に繰り広げた。 

六十年二月、辛は原名義のパスポートを使って、初めて韓国に入国。協力者の一人が辛が韓国に入国したことを韓国当局に自白したため、辛は国家保安法違反(スパイ活動)容疑で逮捕された。(※一審で死刑判決を受けた辛は控訴、上告したが、いずれも棄却。その後、無期懲役減刑され、昨年十二月末、ミレニアム恩赦で釈放された)。